カニバリズム


 いつだっただろうか。
 ぼんやりと霞む頭に、ぽつりと浮かんだ言葉。
「僕が死んだら、食べてよ」
 彼が私に、こんな話をしたことがあった。
 遠い遠い、いつかの記憶。

「君はさ。愛って、どんな風に終わると思う?」
 確か部屋のベッドの上で、私は彼に抱きしめられていた。
 彼の部屋は、飾り気のない、白い部屋だった。
 いきなり何の話かと思ったが、私は素直に答えた。
「結婚したり、同棲したりして、終わりじゃないの」
 出逢って、好きになって、付き合って。
 結婚して、子供を産んで。
 年老いて、いずれは死にゆく。
 男女のどちらか一方が死ねば、愛はそこで終わるんじゃないだろうか。
 いくら好きあっていても、墓は別々のものとなるから。
 私は自分で言っておきながら、つまらないと感じていた。
 そんな、平凡でありきたりな愛なんて。
 あってもなくても、まるで同じじゃないの。
 けれど、そのつまらないものが、現実で。
 終わらない愛なんてあるなら、見てみたいくらいだと思った。
「そう……結婚して終わり?」
「結婚というのが、ひとつの行き先だと思うのよ。死ねば、愛があっても、完結してしまうでしょう」
「完結……か」
 彼はぼそりと呟くと、そのまま黙ってしまった。
 私は彼が何か言葉を発するまで、黙っていた。
 何故なら、彼の俯きがちの顔は、ひどく真剣だったから。
 何か、とても大切なことを考えているかのように。
 私が大人しく彼の鼓動を感じていると、彼は言った。
「確かに、死んでしまえば終わってしまうよね。でも、片方が死んでもね 愛が終わらない方法もあるんだよ」
 相手が死んでも、終わらない? 本当に、そんな方法があるのだろうか。
 でも、終わらないということが、恐ろしくも感じた。
 好奇心と怯えをない交ぜにした表情を私がしていたのだろうか。
 彼は私を見てクスリと笑うと、抱く腕の力を、強めた。
「それって、どんな方法なの……?」
 私は、知りたかった。彼のことを、とても強く愛していたから。
 彼が死ねというのなら、私は死んでみせるだろう。
 何の迷いも躊躇いもせずに、一瞬で。
「終わらないというよりは、ずっと一緒にいられるって感じかな」
 彼は、なかなかその方法を教えてくれなかった。
 焦らすように、近いような遠いような、そんな言葉を繰り返すばかりだった。
 ずっと、彼と一緒にいられるのだろうか。

 私は、こんなことを思っていた。
 恋人という関係のままであり続けたら、どうなのだろうと。
 年をとって、大人になっても、ずうっとそのまま。
 結婚もしなければ、入籍もしないし、子供も産まない。
 そうすれば、ずっと愛していられるのではないかと。
 好きな感情を持ったまま、死んで、墓に入って。
 それでも、相手のことを思い続ける。
 恋という想いが、告白という手段によって成就してしまうから……
 愛は完結してしまうのじゃないかと思っていた。
 叶わなければ、維持することができると。
 今の私から見れば、酷く滑稽で愚かしい考えだったのだけれど。

 私はその方法が知りたくて、彼にじゃれついてみた。
 普段、私から甘えることはほとんどないから、効果があるかと思って。
 彼の腕に、猫のように体を摺り寄せてみたり。
 綺麗な形の唇に、ついばむようなキスをしてみたり。
 くすぐったそうにしながら、彼は教えてくれた。
「君は、カニバリズムって知ってるかい」
 カニバリズム? 何処かで聞いたことがあるような気がした。
 そうだ、確か、昔見た本に書いてあったような、覚えがある。
 人の肉を、食らうこと――
「ええと、人の肉を食べること?」
「そう。よく知っていたね」
 先ほどよりも、彼の笑顔は輝き始めた。
「この行為にはね、いくつかの理由があるんだよ」
 そういって、彼は教えてくれた。

 ひとつ。
大きな事故があったとしよう。場所は寒い雪山だ。
食料はなくて、仲間はどんどん死んでいく。
食べられるといえば、目の前の仲間の死体だけ。
これは、食べざるを得ない状況ということ。

 ふたつ。
昔からいる民族や、宗教的儀式。
儀式の一例として、赤子の肉を食べたりする。
食べなければ、神様の洗礼が受けられない場合もある。
これは、宗教による理由だね。

 みっつ。
とても強い人がいたとしよう。
昔はね、その人の肉を食べれば、自分の力になるといわれていたんだ。
これは、欲深いよね。欲しいから食べちゃうんだもの。

 よっつ
ただ単に、人の肉が好きだから、食べる場合。
よく考えれば、たんぱく質とか栄養は豊富だからね。
これは、一番単純な理由だね。

 私は、彼の話を聞いて、とても不思議な気分になった。
 話では、私達人間……ホモサピエンスも、昔は人の肉を食べていたということ。
 なら、カニバリズムというものは、とても自然な行為なのではないのだろうか。
 それなのに、何故嫌っているのだろうか。
 私にはよくわからなかった。
 獣だって、共食いをしたりするのに。何故人は嫌うのだろうか。
 これも、人間の知能が発達しすぎたせいなのだろうか。
 話を聞くまでは、食人行為が異常な事に思えていたけれど……
 彼の為なら、出来るかもしれないと思い始めていた。

「ずっと一緒にいられるのと、どう繋がるの?」
「わからないかな? 考え方は三つ目に近いよ」
 彼が話してくれた、例え話。
 三つ目は――相手の力を欲しがる話。
 相手が、自分のものになるということ。 それは――
「だから、僕を食べて?」
 私は一瞬、頭の中が真っ白になった。
 彼が、今言ったことが信じられなかったから。
「ねぇ……今なんていったの?」
「だから、僕が死んだら、食べてって言ったんだよ」
 分かっている。彼のいった言葉は、しっかりと聞こえていた。
 ただ、頭が咄嗟には理解できなかっただけなのだ。
 彼を、食べる。
 それは、確かに一緒になれるのかもしれない。
 けれど、同時に彼が死んでしまうということにもなる。
「君が僕を食べてくれれば、僕は一緒にいられるんだ。
 僕がいなくなって、君が死んでも……ね」
 僕を形づくる、血が、骨が、肉が、すべて君になるんだ。
 君の中で、僕は生き続けることができるんだ。
 君を、愛しているままに。
 そう、彼は恍惚と語ってくれた。
 私は、正直にいうと、迷っていた。
 ずっと、一緒にいたいのは確か。
 でも、彼に二度と会えないのは淋しい。
 ぐるぐると回る思いは、屁理屈ばかり。
 一番、大事なことは。
 彼を愛しているということ。
 それさえあれば、他には何もいらないのかもしれない。
 彼を食べて、私達の愛は完結する。  そして、完結して、また始まるのだ。私の……中で。  私は――覚悟を決めた。
「ええ。わかったわ。食べても、いい」
 恐らくその時の私は余程ひどい顔をしていたのだろう。
 彼は誤魔化すように言った。
「別に、今すぐなんて言わないよ。 僕も痛いのは嫌だからね。  僕が、死んだらでいいよ。そう、遠くはないはずだから」
 にっこりと微笑みながら、そう告げた彼の顔は。
 とても青白くて、美しかった。

 そして、彼は今私の目の前に横たわっている。
 冷たく、固くなった姿で。
 私が彼の部屋にいつものように来ると、彼は既に死んでいた。
 彼の亡骸を膝の上に乗せてみる。
 そっと頬に触れてみても、柔らかな温もりは、もうなかった。
 風をこじらせたのか、元から病気だったのか。
 どんな理由なのか、まったく分からなかった。
 分かっていることは、ただ一つきり。
 彼が死んでしまったということだけ。
 不思議と、悲しくはならなかった。
 でも、からっぽな気持ちで埋め尽くされていた。
 誰か一人がいなくなってしまっただけで、こんなにも虚しいなんて。
 世の中の人すべてが消えてしまったら、一体どうなってしまうのだろう。
 どうでもいいことが、気になって仕方がなかった。
 ただ、彼の亡骸をじっと見つめていた。

 彼の髪を撫でながら、頭の中にポツリと浮かんだ言葉。
『僕が死んだら、食べてよ』
 そうだ。私は、彼と約束したじゃないか。
 彼が死んだら、食べてあげると。
 そして、ずっと一緒にいようと。
 なら、私は呆けている場合じゃないと思って。
 彼の唇に、思い切ってキスをした。
 そして、キスをした後、唇を噛み切った。
 口の中に、甘いような苦いような血の味が広がった。
 頭の中には、ひとつだけ。
 彼を、食べなくてはいけない。でないと、彼と離れ離れになってしまう。
 顔の方から、順番に食べていった。
 目玉を抉り取って、コリコリと噛み締めて。
 舌を食い千切って、柔らかさに驚いて。
 首の血管をちぎると、大量の血液が噴出した。
 体は冷たかったのに、血液はまだ少しだけ、温度が感じられた。
 ひたすら肉を食い千切り、咀嚼して、飲み込んで。
 ひたむきに願うことは。
 どうか、彼と一緒にいられますように。
 ただ、それだけだった。
 私が、彼のすべてを食べ尽くしてあげるから。
 形なんか、命なんかなくてもいいから。
 彼がいたという証は、私の中に残っているから。
 記憶なんてやがて薄れてしまうけれど、この事実は消えない。
 私が、彼を食べたという事実は。

 少し体が重くなったと感じて、彼の体を見てみた。
 所々に肉片がこびりついているけれど、ほとんどが骨だけだった。
 内臓も、肝臓の辺りまでは食べた。 まだ、腸などが残っている。
 それに、後で脳も食べなくちゃいけないわ。
 彼の記憶も、私の中に残さなくてはいけないから。
 こんなつまらない世界に、彼を一つたりとも残していけない。
 白い部屋は、いつしか真っ赤に染まっていた。
 ふと私は思った。
 私は、狂っているのだろうか――
 一般的な常識から考えれば、死体を食べるなんて異常行動にしかならない。
 つまり、私はたぶん狂っているのだろう。
 だけど、そんな常識に何の意味があるのだろうか。
 私は、そんな薄っぺらなものなんていらないから。
 私は彼を愛している。
 ただ、その真実だけが、私にとっては意味のあることなのだから。
 それだけで、何だって私はできる。
 このまま……彼と一緒のまま死んでしまおうか。
 そんなことも刹那考えたけれど、すぐに考え直した。
 いくら彼と一緒にいられても、それじゃあつまらないから。
「ずうっと、一緒にいるわ」
 彼の亡骸に、言葉を手向けて。
 私が、彼を食べることに専念することにした。
 けれど、赤い血よりも、もっと気になるものがあった。
 私が噛み千切った、無数の傷口。
 何故か、それが気になって仕方がなかった。
 ああ、もう傷口しか見えない。


back